2024.04.29
# 昭和史 # 日本軍兵士 # 戦争

「親日」だからと甘えていいのか…戦争の記憶が薄れゆく日本人に、かつての「戦場」に住む人々が抱いている「意外な本音」

「戦友会」と聞いてピンとくる人は、どれだけいるだろう? 慰霊や親睦のために作られた元将兵の集まりだが、その「お世話係」として参加し、戦場体験の聞きとりをつづけてきたビルマ戦研究者がいる。それが遠藤美幸さんだ。

家族でないから話せること、普段は見せない元兵士たちの顔がそこにある。『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)から、その一端をご紹介したい。世界中がキナ臭い今、戦争に翻弄された彼らの体験は何を教えてくれるのか。

『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』

本記事は、『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)を抜粋・再編集したものです。

 

元日本兵の慰霊を続ける村

戦後七十数年ともなれば戦争の記憶の風化はもはややむを得ない。ビルマ戦場跡の各所に建てられた旧日本軍の慰霊碑や墓碑は現地社会に根ざすことなく次第に忘却され、慰霊巡拝に訪れる人もそれを管理する人も減少し経年劣化は進んでいる。2007年を最後に中村さんが行けなくなってから、ウェトレット村に日本人の慰霊巡拝者はほとんど来なくなった。元兵士だけでなく遺族も高齢化が進んでいるのである。

2016年と2017年の2年続けて、私は中村さんの意志を継ぐ日本人としてウェトレット村の3月8日の旧日本軍戦没者慰霊祭に参列した。毎年、ウエモンとその一族が中心になって慰霊祭に向けて1週間かけて準備する。ウエモン一族は招待状を作成し、村人約150人に参列を呼びかける。おもてなし料理の準備で女性たちも大忙しだ。当日は4、5名の僧侶を招いて村総出で慰霊祭に参列する。僧侶へのお礼やおもてなし料理など出費は相当の額になるだろう。「慰霊祭をやるにあたって中村に資金を要求したことはなく、できる範囲でやっている」とウエモンは言う(実際のところ中村さんは送金しているのだが……)。正直なところ、こんな小さな村の村人が毎年本当に旧日本兵の慰霊祭を行っているのか? なぜ?

私は半信半疑だった。実を言えば、この目で確かめるまで信じられなかった。

3月の戸外は午前中でも30度を超すので、慰霊祭は朝一番に行う。色彩豊かなロンジーに身を包んだ老若男女が、早朝にもかかわらず7時には集まって来た。村人は中村さんが寄贈した慰霊塔とパゴダを前にして、地べたに並んで座る。4、5名の僧侶が慰霊塔とパゴダを背に、村人に向かって椅子に座る。私は中村さんから言付かった日本の菓子や酒を慰霊塔に供えた。とくに乾期のメークテーラ戦の最大の敵は水不足だと聞いていたので、私は日本のペットボトルの水をできるだけスーツケースに詰め込んでしこたま持参した。最期の時に水を求めた兵士に思いを馳せて供えた。

慰霊祭が始まった。僧侶による読経の最中、銀の器に水滴を垂らして「灌水供養」をする。「灌水供養」は本来ウエモンと中村さんの役目だが、この時は恐れ多くも中村さんの代わりを私が務めた(2016年)。功徳を回向するため、1滴ずつ水差しの水滴を銀の器に垂らすのだが、見ている以上に難しい。せっかちなせいか器がすぐに水でいっぱいになってしまった。読経が終わると参列者が1人ずつ慰霊塔前の台に花を供えた。

その後、「中村テンプル」に場所を移した。そこでも僧侶の読経と講話がある。その後、参列者皆でおもてなし料理(乾燥魚の煮物、スープ、マンゴーサラダなど)を頂く。近隣の村人や子どもたちや近くの工場の労働者や通りがかりの人まで、合わせて60名ほどが集まって賑やかに歓談する(2017年)。

中村テンプル(著者撮影)

最後に、唯一の日本人参列者の私が僧侶に呼ばれた。僧侶から私に特別な講話があった。僧侶はミャンマーでは大変尊敬されているので非常に有難いことである。私が僧侶に「なぜミャンマーの人々が旧日本軍の慰霊をされるのですか」と不躾な質問をすると、次のように諭された。

「国も民族も関係ありません。ビルマ戦で亡くなったすべての戦没者のための慰霊祭です。日本人のあなたが慰霊祭に参列することはとても良いことです。人間は必ず死を迎えます。生きている間にできるだけ良いことをしなさい。功徳を積むのです。それが仏様の教えなのです」

僧侶の言葉が心に沁みて、思わず涙がこぼれた。なぜ旧日本軍の慰霊祭を現地主導で行うのか? と疑問に思っている心を見透かされて身が縮む思いがした。地べたに額をつけるようにお経を唱える村人の敬虔な姿を見て、少しでも彼(女)らを疑った自分が恥ずかしくなった。

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