2023.02.04
# AI # 将棋

【谷川浩司・十七世名人】史上最年少名人への道ーーついに挑戦者に!「とんでもないことをしているのでは」

藤井聡太はどこまで強くなるのか(19)
「負ければニュースになる」ほど強い藤井聡太五冠。果たして史上最年少名人記録は更新されるのか? 現記録保持者の谷川浩司・十七世名人が、さらなる進化を続ける藤井将棋と過酷さを増す将棋界のいまに迫るとともに、棋士・将棋界にとっての「名人」とはなにかを自らの経験も含め明かした著書『藤井聡太はどこまで強くなるのか 名人への道』。注目の章をピックアップ連載!
谷川浩司・十七世名人の史上最年少名人への道のりは
谷川浩司・十七世名人、史上最年少名人への道を振り返ってから読むことができます!

中原先生との挑戦者決定戦

1983年3月24日の挑戦者決定戦が始まる少し前、知人に連れられ、オープンしたばかりの赤坂プリンスホテル、通称赤プリの40階建て新館3階の喫茶室でお茶を飲む機会があった。

当時、タイトル戦の対局場は公式には発表されていなかったが、その後、関係者から名人戦第一局の対局場は赤プリだと知らされた。私が喫茶室を訪れたのはまったくの偶然だったが、何かの縁を感じて、「ひょっとしたら中原先生に勝って挑戦者になれるかもしれない」と思った。ここまで来ると挑戦者になることを意識せざるを得ない。名人戦第一局を意識して、中原先生との挑戦者決定戦の前日に赤プリに宿泊予約を入れようとしたが、さすがに満室だった。

実力的にはまだまだと思っていても、自分が勝って挑戦者になるイメージをつくりたかった。そういう姿をイメージできるかできないかによって、目標を達成できるかできないかのパーセンテージがわずかながらも変わってくるように思う。

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将棋の対局で運が占める割合は極めて低い。しかしゼロではない。わずかばかりの運が勝敗を決することも往々にしてある。ではその運をどう呼び込むか。それは、どれだけ本気で将棋に打ち込んできたかにかかっていると私は考えている。

プレーオフの対局は東京の将棋会館だった。将棋関係者は、「谷川もここまでよく頑張ったが、さすがに挑戦者決定戦は中原の勝ちだろう」と読んでいたに違いない。

一方で、将棋にあまり詳しくないメディア関係者や将棋ファンたちは若く新しい才能を待望していた。毎日放送が私のドキュメンタリーを作るなど、そうした世の中の空気が私への追い風になった。

「運が良ければ挑戦者になれるかもしれない。なれなかったとしても、挑戦者争いまで進めたのだから、自分にとっては上出来の一年だった」

そう思い、リラックスして挑戦者決定戦に臨んだ。

対局では、私が先手になって矢倉を組み、無理筋と紙一重の攻めが奏功して有利になった。その後、中原先生の勝負術で混戦に持ち込まれた。

長い対局だった。日付が変わろうとしていた。最後の最後、決め手を発見する少し前の段階で、体が震え、頭に靄がかかっている状況になった。仰ぎ見ていた中原先生と戦って、名人挑戦者を目前にしたゆえの緊張だった。

決め手を発見して、その後は気持ちの動揺なく勝ちまで持っていけた。中原先生は「ここで投了されるかな」と思ったところから何手か指された。それは先生の執念の表れだったかもしれない。

ついに名人挑戦者になった。

他のタイトル戦では挑戦者になれなかった私が、順位戦は勢いづいて勝ち進んでいった。対局の内容もよかった。対中原戦に限らず、積極的で勢いのある将棋がプレーオフを含めて順位戦全局を通じて指せたと思う。

ただ、10局の中で唯一悔いが残るとすれば、前述した対米長戦で千日手模様を打開する手順として指した1手だけだった。持ち時間もだいたい5時間半前後を常に使う、理想的な使い方だった。

挑戦者決定戦を含めて、この期の順位戦全10局は、平均手数130手で熱戦が多かった。そして私の指し手は650手ほどということになる。650手の中で不本意な手が対米長戦の1手しかなかったのは奇跡的とさえ言える。

A級に限らず、一番下のC級2組から勝ち上がっていく中で、順位戦との「相性の良さ」を感じていた。先輩棋士たちが感じている順位戦の重み、クラスの昇降級や残留が決まる一勝の重みを私はさほど重圧に感じることなく、普段の力を出し切れたように思う。

そして何よりも、私には「羽生世代」に匹敵するような強力なライバル集団がいなかったことが大きい。

この年度の私の対局数は66局とかなり多かったが、39勝27敗と負け数も多かった。順位戦は挑戦者決定戦を含めて8勝2敗だったが、10段戦のリーグは逆に2勝8敗とまったく振るわなかった。それまでは通算勝率7割だったが、1982年度は6割を切った。

まだまだ実力的には及ばず、この年度中原先生に勝てたのは、順位戦と挑戦者決定戦の2局だけ。順位戦を除くと5敗だった。