前編<【谷川浩司・十七世名人】史上最年少名人への道ーーついに挑戦者に!「とんでもないことをしているのでは」>より引き続き名人への軌跡を追います。
弱かったら負けたらいいんや
第4局は熊本であった。マスコミは「史上最年少の名人誕生か」とにわかに熱気を帯びていた。自宅を出てから空路、熊本に飛ぶ際も大勢の報道陣を引き連れての移動となり、機内でもカメラを向けられていた。
対局は先手番で矢倉に組み、例によってこちらから先に攻めたが、明らかな無理筋だった。ただ、これには伏線があった。その数日前に青野先生との対局で似たような形となった時、こちらから仕掛けていかなかったことを後悔していたのだ。
「今度こそ攻めていこう」と前のめりになっていた。しかし前回と比べると、相手の陣形が整備され、条件が悪かった。にもかかわらず、強引に攻めていったため、隙を突かれて咎められてしまった。名人を意識せずに普段の自分の将棋を目指して仕掛けたつもりだったが、読みが何ともお粗末だった。
その後もし4連敗していたら、第4局の無理攻めの仕掛けが流れを変えた大悪手になっていたかもしれない。
A級順位戦が始まってからずっとつながっていた勢いが、第4局でつまずいて歯車が少々狂った。それである意味、加藤先生が目を覚ましたのかもしれない。
京都での第5局も、こちらから動いていったが、2日目の夕食休憩後、終盤での読みに正確さを欠き、敗勢に転じていった。指し手の良し悪しもそうだが、「勝てば名人か」と気持ちの面でもやや急いだ感があった。これで3勝2敗となった。
第5局の打ち上げの時、灘蓮照先生から声をかけられた。
「弱かったら負けたらいいんや。名人になるという力がないということや。また取りに行けばええ」
あの時、灘先生が打ち上げの会場におられたことが不思議だった。立ち会いのような立場ではなかったのに、なぜか会場に来られていた。
日蓮宗の僧籍を持っておられた灘先生は、ある時、私の実家がお寺であることを告げてから事あるごとに声をかけてくださった。
灘先生も一度、1970年に名人挑戦者になられたことがあった。その後、C級1組の時に私と昇級争いをした。私が17歳、灘先生は52歳だった。私が7勝1敗で、灘先生が6勝2敗。勝ったほうがB級2組昇級に近づく一局だった。結果的に昇級できたのは私のほうだった。
「弱かったら負けたらいい」。
あらためてその通りだなと思った。勝ち負けを意識するのではなく、自分のベストを尽くせ。そういうことを灘先生なりの言葉で伝えられたのだと思う。
灘先生はこの後すぐに体調を崩され、翌84年4月に他界された。その年の名人戦第2局が山口県宇部市の宇部全日空ホテル(現ANAクラウンプラザホテル宇部)であった。2021年、藤井さんが竜王を獲得した場所である。私は22歳で、相手は森安先生だった。
対局中に灘先生が亡くなられたことを聞いて、「葬儀に参列しなければ」と思った。第2局は172手の大熱戦となり、夜11時前まで対局が続いたが、翌朝6時に起きて新幹線に乗り、いったん神戸で着替えてから京都での葬儀に参列した。