【国葬前日・緊急続編】国葬賛成の月刊『Hanada』編集長の論理を、リベラル派ジャーナリストが問う【花田×斎藤 左右ガチンコ対談】

Part2 国葬編
いよいよ9月27日に安倍晋三元首相の国葬儀が行われる。国葬賛成派で月刊『Hanada』編集長の花田紀凱氏と、反対派でジャーナリストの斎藤貴男氏が、その実施の是非を巡ってガチンコで討論した。
統一教会を巡っての対談Part1(前篇後篇)もあわせてお読みください。

花田「反対する理由がわからない」

斎藤 岸田政権の支持率が激減していますが、その要因は旧統一教会問題と国葬の強行でしょう。花田さんは国葬に賛成ですよね。私は反対です。反対の理由を述べさせてください。

まず原理的な反対理由として、「国葬対象者の基準や実施方法など、公正性や『心の自由』を担保する法律がないのだから、今は誰であってもやるべきではない」ということがあります。もし行えば、いっときの内閣による恣意的な行政になり、公正性や「心の自由」が保障されなくなる。これは極めて危険だと思うんです。

安倍氏を高く評価する人たちが「非業の死を遂げたのだから、国葬という形で送ってあげたい」と思うのは理解できます。でも、法律がない以上、自重してもらわないと困る。法律が整備されていない中で実施した吉田茂国葬の例がありますが、吉田は日本の独立を回復させた首相ということで、リベラル側の私から見ても特別な存在ではあり、あくまで例外だったと捉えるべきでしょう。

政府が「国葬という仕組みが必要だ」と考えるに至ったというのであれば、安倍氏の死去とは別に、場当たり的にではなく、一から国会で審議してルールを作り上げるべきだった。

斎藤氏 Photo by Shinya Nishizaki斎藤氏 Photo by Shinya Nishizaki

花田 僕は反対する理由が分からない。斎藤さんの言う原理的な問題について、官邸はとっくに整理できてます。

まず法的根拠に関しては、こういう解釈でしょう。

〈たしかに国葬についての直接的な法律はない。しかし内閣府設置法で、所掌事務の一つに「国の儀式」をうたっている。つまり「国の儀式」を行うことは行政権に含まれる。ゆえに国葬を「国の儀式」と定義すれば、行政権の行使として行える〉

だから首相も会見で、「国の儀式として行う国葬儀」という言い方をしています。

 

国葬対象者の基準がなく公正性に欠くとの批判には、首相は「総合的に時の政府が責任をもって判断をするのがあるべき姿」として、具体的には、憲政史上最長の在任期間など4つの理由をすでに明示している。「心の自由」をめぐっても、政府は「国民一人一人に喪に服することを求めるものではない」と強調して、内心を侵害しない、弔意の強制はあり得ないと説いている。野党やメディアが懸念する点について、その都度説明して、クリアしているわけです。

斎藤 しかし、国葬という民主主義の根幹にかかわる重大事を、あらかじめ定めたルールがないまま、行政の判断だけでやっていいなんて暴論じゃないですか。少なくとも、安倍氏が国葬に値するのか、国民の代表たる国会が判断に関与しなくていいんですか?また、憲法19条で保障された「思想と良心の自由」が本当に保障されるか、司法の判断を経なくていいんでしょうか。

同調圧力に支配されたいまの日本社会で、「国民一人一人に服喪を求めていない」と政府が会見で言うだけで強制性が排除されるでしょうか。いよいよ「心の自由」が侵害されるのではないかと私は危ぶみます。

実際、佐藤栄作が亡くなったときに浮上した国葬案をめぐっては、当時の内閣法制局長官が、国葬には立法と司法も合わせた三権の合意が必要だとする判断を示している。そして政府・自民党は、国会の全面的な賛成が得られないと見て、「国葬」ではなく、「国民葬」として実施した。あの時の、いまより遙かに真っ当なプロセスを経た憲法解釈はどこに消え失せたのか。変更するなら変更するで、どんな理由でそうなるのかを明確に示してもらわないと、この国の「法の支配」が泣きますよ。

関連記事