安倍元首相を偲ぶ:人たらしの天才

倉沢 良弦

本人Twitterより

9月27日、やがて来る安倍元総理の国葬儀に際し、一国民として憲政史上最長の総理を務めた安倍元総理の国葬儀に思うことを少し書いてみたい。

安倍元総理が憲政史上最長の8年8ヶ月、政権を維持できた背景には一体何があったのだろうか? 国内経済の立て直し、卓抜たる外交手腕、かつて例を見ないインド太平洋地域の平和と安定の道筋、世界最大の貿易協定TPP締結、G20大阪の成功と数え上げればキリが無いし、それらは既に多くのメディアが取り上げている通り。

それよりも日本国民としてもっと印象に残っているのは、国会における野党との論戦だ。

結果的に、森友学園問題、加計学園問題、桜を見る会問題を執拗に追求してきた野党議員の中で中心的な役割を担ってきた議員は軒並み選挙で落選し、また落選せずとも大きく票を減らしギリギリで当選した議員も数多くいる。つまり、足掛け4年もかけて国会の貴重な論戦の場を使い、悪魔の証明を突きつけてきた野党は結果的に安倍元総理を国会の場で切り崩すことができず、負け続けた。

政治家は落選したり支持率を落とせばその役割を一旦、終える。何故、民主主義の根幹が選挙かと言われれば、全ての答えがそこにある。選挙で負けることは政治生命の死を意味するので、政治家たる者、そこに言い訳は必要ないだろう。

翻って見れば、実は安倍元総理は国会論戦の場でも、選挙でも一度も負けていない。第一次安倍政権も第二次安倍政権も、結果的に安倍元総理が抱える難病に負けたのであり、彼は勝ち戦しかしてこなかった。そして、最後は個人的な家族と宗教団体に恨みを持つ者の、一方的、鬱屈した犯行動機によって、文字通り言われなき犠牲者となってしまった。そして、安倍元総理は政治家のまま鬼籍に入られたことになる。

この凶弾に倒れたことを負けとすることは、違うように思う。この凶弾は本来、犯人が恨みを抱えた家族や宗教団体に向くべきものであったので、選挙期間中に犠牲となられた安倍元総理は彼の直接的な原因ではないところの凶弾の犠牲者になった。

岸田総理が今回の国葬儀の一つの理由として掲げた「民主主義に対する暴挙」と言えば確かにその通りだが、むしろこの悲劇的な結末によって、安倍元総理は最後まで、何かに「負ける」ことなく我々の前から姿を消したことになるのだ。

繰り返すが、安倍元総理が唯一ご自分で負けを認めたのは、難病に対してであり、決してその政治家人生の中で主張し政治家としての矜持を全うした理念と行動が誰かの手によって歪められることは無かった。これは否定しようのない事実だ。

野党議員とその支持者は、安倍元総理が関与したとされる様々な問題について、安倍元総理の暗部であるかのように言うが、それは違う。何故なら、彼らが言う点について、安倍元総理自身が負けを認めてないからだ。

喧嘩の常套としては、負けを認めるまでは負けてはいない。安倍元総理は政治家人生で自分から負けを認めることなく、追求する野党議員やその支持者、マスコミの前からいなくなったのだ。煎じ詰めれば、野党議員もその支持者もマスコミも、安倍元総理に負けたのである。彼らが認めたくなくても、それは歴史的な事実となって後世に残る。

安倍元総理は、折に触れ、「わたしたち夫婦には子供がいませんが・・・」と国民に語りかけた。しかし同時に何度も何度も何度も、「この国の次代を担う子供たちのために・・・」と語りかけてきた。

遊説中やありとあらゆる場面で、小さな子を持つ親御さんに繰り返し繰り返し、この言葉を語りかけた。SNS上ではそれらの膨大な国民の声が証言となって残されている。それを政治家一流のパフォーマンスと見るのは、構わない。受け止め方は人それぞれだ。ただ、少なくとも子を持つ親の一人として、あの安倍元総理の言葉に一切の嘘は無かったと確信している。

コロナ禍が起きた時、安倍元総理自ら、国民に対して、「今は我慢してこの難局を乗り越えてほしい。国は最大限、出来る限りの努力をして皆さんの生活を守る」と約束して、事実、当時としては先進国中最も巨額のコロナ対策費を予算計上し、野党に一切の文句を言わせない形で即断即決した。そのスピードも早かった。

あの布マスクもそうだ。我々の年代には懐かしい、あの洗えば縮んでしまって少しみすぼらしくさえ思えるマスクを、用意した時、誰よりも長く、洗い変えしながら使い続ける安倍元総理の姿を忘れることはできない。どれほどマスコミや心無い野党支持者にバカにされようと、彼は自らの信念を貫いた。我が家では不織布マスクが入手しやすい環境にあり、あの布マスクは使われることなく、今も大切に保管している。あの布マスクには、安倍元総理の「思い」が詰まっている。

そんな安倍元総理が、私の知る限り一度も行わなかった言葉がある。

それは、自分のことを蛇蝎の如く罵る声に対して、一切、同じ言葉で相手を批判することは無かったことだ。確かに国会論戦の場で行き過ぎた言葉で詰問する野党議員に対して色を為して返答する場面はあった。しかし、国民に対してそれを言うことは無かった。一国を預かる宰相としてこれは当然の姿だったと思う。だから、選挙で一度も負けなかったのだ。

かつて、田中角栄という人がいた。私は昭和史に残る名宰相であったと思っている。残念ながら、汚職によって政界を引退せざるを得なかったが、それでも政治家としては歴史に名を残す人だった。

田中角栄には数々の逸話が残されているが、彼は人をして「人たらし」の異名を持つ。マスコミや野党には金満体質と罵られたかもしれないが、田中角栄は誰よりもお金に苦労してきた故に、自分を頼ってきた人を無碍に突き放すことが出来なかった。

また彼は冠婚葬祭のうち、葬祭を最も大切にし、政敵の親族が亡くなった折、田中角栄は自ら当時としては法外な香典を届けたりもした。そして、田中角栄は一貫して、自分が金銭面で助けたことを誰にも口外するなと側近に伝えていた。お金を借りること、世話になることがどれほど恥をしのんだ行為かを知っているが故に、相手が世間に恥を晒すことがないよう徹底して他言無用を貫いた。

これが田中角栄が「人たらし」と呼称される所以だ。

私は、政治家としての姿勢は違えど、安倍元総理に同じものを感じる。

野党議員の中でも辻元清美議員は、特に安倍元総理を追求してきた筆頭格であるが、国会論戦の場でどれほど丁々発止のやりとりをしようとも、安倍元総理は一度国会論戦の場を離れると辻元清美議員に優しかったと言われている。是々非々で、互いの持分、領分、役割を認識し、それはそれ、これはこれで国民から選ばれた一人の政治家として辻元清美議員に接していたのだろう。安倍元総理の訃報に接した時、私は辻元清美議員が泣いてしまうのではないかと思えるほどに、彼女は安倍元総理の死を悼んでいた。

同じことは野党支持者にも、またマスコミに対しても言えるだろう。

言いたい放題に書かれることを、時に冗談まじりで取り上げることはあったが、それでもマスコミにはマスコミの役割があり、また何よりこの国には「言論の自由」という揺るぎない権利が国民一人一人にあることを言葉ではなく態度で示した。だから、マスコミに対して訴訟を起こしたり、言われなき誹謗中傷に対しても決して怯んだり反論したりはしなかった。

現在の国葬反対の声が、安倍元総理存命の頃から安倍政治を批判してきた人たちの残渣のようにあちこちにある。安倍元総理は、自分や自民党を批判するそれらの声に対して、その背景にある生活の困窮実態や社会の中で不遇な境遇にある人々の声として受け取っていたのではないだろうか?

私は以前から、今回の国葬儀は法的にも全く問題が無いどころか、内閣府設置法立法のきっかけを作ったのは他ならぬ野党であり、彼らが内閣府の仕事内容を決めたと言ってきた。詳しくは拙稿を読み返していただけばありがたい。

むしろ、今回の国葬儀を国葬と言い、あたかも国家が安倍元総理を神格化そうとしてるように言ってるが、それが間違いであることも指摘してきた。別言すれば、野党議員とその支持者は内閣府の決めた国葬儀で総理経験者が神格化されると思い込んでいるから、国葬反対を言うのだとも指摘してきた。

国葬儀は決して法的矛盾も無く、また安倍晋三を神格化そうとするものではない。

だが、一方で国民生活の中で自分の本意ではない境遇に置かれ、厳しい生活を強いられている人が、政権を担う自民党や8年8ヶ月にわたる長期政権を担ってきた安倍元総理に批判の矛先が向くのも、一つの理由にはなる。それはつまり、一部の国民による悲鳴でもあるわけで、今回の国葬反対論争の裏側には、政治家が頼りなんだからもっとしっかりしてくれよ、と言う声なき声でもあるだろう。

安倍元総理は一貫して国民のため、世界各国の中の日本のために尽力してきたし、その功績は計り知れないが、同時に、国民を一人も取り残さない決意の表れでもあった。日本における公党の中でも最もリベラルな政党は他でもない自民党だ。それは歴史が証明している。その中でも、近年の総理大臣の中で最もリベラル色が強かったのが安倍晋三という人だった。

その政治姿勢は、助けてほしい、救ってほしいという国民の声なき声に応えるものでもあった。
だからこそ、死してなお賛否の論争が止まらないのだ。

つまり、安倍晋三は田中角栄以上に、国民に対して良くも悪くも「人たらしの人」であったし、個々人の政治心情とは別の記憶に残る人であったのだ。

だからこそ、我々は善悪や功罪、好き嫌いの別なく、安倍晋三という不世出の宰相を見送ってはどうだろう?

今回の国葬儀はそのような意味を持つ場であり、我々はそう思って27日を迎えるべきではないだろうか?

倉沢 良弦
大学卒業後、20年間のNPO法人勤務を経て独立。個人事業主と会社経営を並行しながら、工業製品の営業、商品開発、企業間マッチング事業を行なってきた。昨年、自身が手がける事業を現在の会社に統合。個人サイトのコラムやブログは企業経営とは別のペンネームで活動中。


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