元寇の謎。なぜ高麗王は率先して、日本を侵略しようとしたのか

『民族と文明で読み解く大アジア史』増補編1
日本の歴史教科書では、アジア全体の歴史の実体を学ぶことはできない。アジア諸民族は古来から多くの闘争を繰り広げてきた。それは21世紀の今も続いている。情勢の行方を見るのに、民族・宗教・文明に着目したアジア史の理解は必要不可欠なのだ。『民族と文明で読み解く大アジア史』(講談社+α新書)はその理解の一助になるはず。著者の宇山卓栄氏による、この話題の本に収めきれなかった章を連載でご紹介したい。今回はその第1回。13世紀の元寇で朝鮮人が果たした役割と、それに至った背景についてだ。

日本侵略を上奏した高麗の王子

13世紀の元寇。元の軍は長崎県・対馬に攻め入りました。その中にはモンゴル人とともに朝鮮人兵士もいました。『高麗史節要』には、帰還した高麗軍の将軍が200人の子供を高麗王に献上したという記述があります。「蒙古襲来」とも言われるように、モンゴル人が大挙して押し寄せて来て、それに朝鮮人たちが仕方なく付き合わされたという捉え方が日本人の中にもあると思います。しかし、実態はそうではありません。

当時の朝鮮は高麗でした。高麗王の子(後の忠烈王)は1272年、自ら進んで、フビライ・ハンに日本を攻めるべきであることを以下のように、上奏しています。

惟彼日本 未蒙聖化 故発詔 使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師。
惟(おも)んみるに彼の日本は、未だ(皇帝フビライの)聖なる感化を蒙(こうむ)らず。故に詔(みことのり)を発して、軍容を整え、継糴(けいてき、糧食を整えること)せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須(みち)いる所あらん。もし此事(このこと)を以て、(皇帝が)臣(忠烈王のこと)に委(ゆだ)ねば、心力を尽し勉(つと)め、王師(皇帝のこと)を小助せん。――『高麗史』の「元宗十三年」の一部

王子はこの上奏の2年後の1274年、父王の死により、王(第25代王、忠烈王)に即位します。そして、忠烈王は文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)において、艦船を建造し、兵力と経費を積極的に元王朝に提供し、日本侵攻の主導的な役割を果たします。