白波を敵上陸部隊の来襲と見間違えた
「昭和19(1944)年9月9日から10日にかけて、私のいたダバオ(フィリピン・ミンダナオ島)は、アメリカ海軍機動部隊の艦上機による大空襲を受けました。私は以前、空母から陸上部隊に転勤したとき、『基地は空襲で沈むことはないが、敵艦隊を攻撃することができるから有利』だと思っていたのがとんでもない勘違いだったことを悟りました。こちらは動けなくて、敵機動部隊はいつどこを攻めるかを自由に決められる。まさに、敵のやりたい放題だと思いましたね……」
と、当時、日本海軍第一航空艦隊(一航艦)副官の主計大尉だった門司親徳(もじ・ちかのり1917-2016)は回想する。門司は第一航空艦隊の全ての文書に目を通し、なおかつ上層部に届ける報告文を起案する立場にある。フィリピンにおける最初の特攻隊編成から出撃の一部始終を間近に見て、その成り立ちを語り得る唯一の人物だった。
「味方の索敵機が敵を発見できず、配備を急いでいた電探(レーダー)は、輸送の途中で積んでいた舟艇が敵機の襲撃を受けたために設置ができていない。日本側は全く気づかないまま、完全な奇襲を被りました。味方戦闘機は空襲を避けてフィリピン各地に分散していたので被害は少なかったが、その代わり迎え撃つ戦闘機もおらず、9月9日は終日、ダバオ基地上空は敵機に制圧されました」
翌10日も、早朝から空襲がはじまった。ダバオ基地にあった飛行機は故障機ばかりで飛べる機体は1機もない。ほどなく、海岸の見張所から「敵水陸両用戦車200隻陸岸に向かう」との報告がもたらされる。飛行機もレーダーもない状況で、敵情については見張員の目視に頼るしかなかった。
ミンダナオ島防衛を担当する海軍部隊は、第三十二特別根拠地隊(司令官・代谷清志中将)である。浮き足立った根拠地隊司令部は、確認のため幕僚を海岸に派遣することもしないまま「ダバオに敵上陸」を打電し、一航艦司令部もそれにつられる形で混乱を起こす。
司令部は玉砕戦を覚悟して通信設備を破壊、重要書類を焼却したが、10日夕方になって、ダバオにいた第一五三海軍航空隊飛行隊長・美濃部正少佐が、修理のできた零戦で現地上空を偵察飛行してみたところ、敵上陸は全くの誤報であることがわかった。見張員が、暁闇の海面に立つ白波を敵上陸部隊の来襲と見間違えたのであった。
これは、昔、平氏の軍勢が水鳥の羽ばたく音を源氏の軍勢と間違えて潰走した「富士川の合戦」を思わせることから、「ダバオ水鳥事件」と呼ばれる。