2021.10.16
# 戦争

【特攻を語る】日米開戦に懐疑的だった男が、「決死隊をつくる」と覚悟を決めるまで

「特攻」の誕生(1)後編
太平洋戦争末期の昭和19(1944)年10月25日、初めて敵艦に突入して以降、10ヵ月にわたり多くの若者を死に至らしめた「特攻」。近代戦争において世界的にも類例を見ない、正規軍による組織的かつ継続的な体当り攻撃はいかに採用され、実行されたのか。その過程を振り返ると、そこには現代社会にも通じる危うい「何か」が浮かび上がってくる。戦後76年、関係者のほとんどが故人となったが、筆者の四半世紀にわたる取材をもとに、日本海軍における特攻の誕生と当事者たちの思いを4回にわたって振り返る。
第1回後編となる本稿では、トラック島壊滅後、転げ落ちるように敗北を重ねていった日本軍が「特攻」を採用し、実行するに至るまでの道筋を語る。

【前編】日本海軍司令部が戦わずして“自滅”に陥った「意外すぎる理由」とは

 

二つの事件の責任をとらされた寺岡中将

ダバオから壊走し、マニラに移転した新しい第一航空艦隊司令部は、マニラ湾に沿った海岸通り沿いにある2階建ての洋館に置かれた。昭和19年10月9日、門司は突然、小田原参謀長に呼ばれる。一航艦司令長官が更迭され、寺岡中将の後任として大西瀧治郎中将が着任するのだという。

寺岡中将の後任として第一航空艦隊司令長官となった大西瀧治郎中将。フィリピンで最初の特攻隊を編成した

寺岡中将は在任わずか2ヵ月。司令長官は天皇が直接任じる「親補職」だから、これほど短期に更迭されることは常識では考えられない。誰が見てもこれは、「ダバオ水鳥事件」から「セブ事件」と続いた一連の不祥事で戦力を失った責任をとらされたのは明らかだった。「水鳥事件」の直接の責任者である第三十二特別根拠地隊司令官・代谷中将も罷免されると聞けば、疑う余地はない。

門司もほかの司令部職員たちも、来るべき「捷一号作戦」は当然、寺岡長官のもとで戦うものだと思っていた。寺岡はいわゆる闘将型の指揮官ではなかったが、そのやわらかい人柄で部下たちの敬愛を集めていた。

門司はそのとき、寺岡中将をかばう気持ちのほうが強かったと語っている。

「一連の不祥事を招いた責任は、根拠地隊の混乱につられて浮き足立った幕僚や司令部職員にもあるわけで、小田原参謀長も辛そうな表情をしておられました。私も、『われわれが至らなかったばかりに』と、胸が痛む思いがしましたね・・・・・・」

新たに司令長官となる大西中将はすでに「南西方面艦隊司令部附」という発令があって、内地を発ちマニラに向かっているという。

「もう内地までお迎えに行くことはできないが、台湾までお迎えに行ってくれないか」

小田原参謀長に言われて、門司はその日のうちに台湾に赴くことにした。

以上のようないきさつから、現場の認識としては、この司令長官交代劇はあくまで寺岡長官が一連の不祥事の責任をとらされた、いわば偶発的なものだと捉えられている。

関連記事