福島第一原発事故の「真実」…誰もが死を覚悟した壮絶な現場の全貌
「2号機の危機」 第1回3つの原子炉が相次いでメルトダウンし、原子炉や格納容器を納める原子炉建屋が次々に爆発するという未曾有の原発事故を描いた『福島第一原発事故の「真実」』(小社刊)が大反響を呼んでいる。
発売から2ヵ月あまりで、『朝日新聞』『毎日新聞』『東京新聞』『文藝春秋』『しんぶん赤旗』『公明新聞』など様々なメディアで取り上げられ、
「今になって明らかになった事実には、驚く他ない。背筋が寒くなり、とにかくこれは、皆が事実に向き合って考えるところから出直す課題だと強く思う」(毎日新聞書評、JT生命誌研究館名誉館長 中村桂子氏)
「厚さに圧倒されつつ、読み始めたらあっという間に読み終えてしまった。まさにドキュメンタリー・エンターテイメントともいえる読み応えのある一冊となっている」(公明新聞書評、長崎大学核兵器廃絶研究センター副センター長・教授 鈴木達治郎氏)
といった高い評価を得ている。
NHKメルトダウン取材班は、10年に及ぶ徹底的な調査報道を通じて、東日本壊滅の危機を免れたのは、吉田昌郎・福島第一原発所長らによる決死の消防注水が功を奏したというよりは、消防注水の失敗や格納容器のつなぎ目の隙間から圧が抜けたりといった幾つかの偶然が重なった公算が強いことを明らかにした。
現代ビジネス、ブルーバックスWebでは、吉田所長が死を覚悟したとされる「2号機の危機」を描いた、同書の6章を全4回の連載で完全公開する。事故発生当時に考えられた事故像を覆す衝撃的な内容は、読むものを震撼せしめるはずだ。
3号機水素爆発——3号機爆発まで約30分
事故4日目の福島の空は、朝から晴れ間が広がっていた。3月14日午前10時半すぎ、2号機と3号機のタービン建屋の間で、日立グループの福島第一原発事務所長の河合が久しぶりに陽の光を浴びながら作業をしていた。2日前の1号機の水素爆発で潰えた電源復旧作業を再開し、ケーブルの敷設作業にあたっていた。3号機の水素爆発の不安が拭えないと現場に行くのをためらっていた東京電力の復旧班の社員も今は黙々と作業を続けていた。協力会社の日立グループの社員は、河合を含めもう4人しか原発に残っていなかった。その4人全員が現場に出ていた。
3号機のタービン建屋の近くでは、消防班と南明興産の社員およそ20人も作業をしていた。原子炉に注ぐ水の供給源となる逆洗弁ピットに溜まる海水が底をついてきたため、新たな注水ラインを作っていた。200メートルほど北にある原発の専用港から消防車のポンプによって水を汲み上げ、もう1台の消防車を経由して長々と接続された消火ホースによって逆洗弁ピットに海水を注ぐ計画だった。
要請を受けて原発に到着した自衛隊の5トン給水車7台のうち、2台が逆洗弁ピットの補給のため、3号機タービン建屋近くまで移動してきていた。
太陽が南の中空にさしかかろうとしていた午前11時1分だった。
すさまじい爆発音があたり一面に響いた。耳元で風船が割れたようなバンという轟音だった。
晴れ上がっていた青い空がまるで霧が立ち込めたように真っ白になり、次の瞬間、ガラガラとコンクリートの破片のようなものが空から降ってきた。3号機が水素爆発した瞬間だった。
作業員たちは死にものぐるいで消防車や建物の陰に隠れた。そばにあった配管の陰になんとかへばりつくように体を隠して思わず目をつぶった。死ぬのではないか。ガラガラと轟音がして、目をあけると、2号機と3号機の間は大量の瓦礫で覆われていた。
もはや車は動かせない状態だった。作業していた者は互いに助け合いながら降り積もった瓦礫の上を歩いて免震棟へと避難を始めた。
河合も爆発音とともに激しい振動に見舞われた。その直後、何かが次々と地面に落ちたような衝撃音が響き渡った。河合は、ほんの十数分前に、ケーブル端末の接続作業のために、部下や東京電力の復旧班の社員らと一緒に2号機のタービン建屋の中に入ったばかりだった。
河合がタービン建屋の搬入口から顔を出して見ると、あたり一面が瓦礫で覆われていた。周囲は舞い上がった埃で真っ白になり、何も見えなかった。建屋のすぐ近くでは、自分たちが乗ってきた車が、瓦礫でぺしゃんこになっていた。
「もし外にいたら」
河合は身震いした。20人全員が死んでいただろう。危機一髪だった。
一緒にいた保安班の放射線管理員が、周辺の放射線量を測り、「山のほうに逃げましょう」と叫んでいた。部下とともに山に向かって駆け出し、あたりを見渡すと、現場にいた自衛隊員や復旧班の社員たちも、道路に積もった瓦礫の上をかき分けるように山に向かって走り出していた。
途中、キーがかかったままのトラックを部下が見つけ、若い自衛隊員に運転を頼んで、けが人を乗せ、免震棟に向かってただひたすらに逃げた。
河合は「ああ終わった」と思っていた。「終わった」というのは「もう作業ができない」と「もう生きて戻れない」の2つの意味が重なっていた。かなりの被ばくをしてしまって、もう生きて帰れないと思っていた。