本記事は、リチャード・デイヴィス氏の著書『エクストリーム・エコノミー 大変革の時代に生きる経済、死ぬ経済』(ハーパーコリンズ・ ジャパン)の中から一部を抜粋・編集しています

非公式経済の力

ゴールド
(画像=PIXTA)
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(画像=『エクストリーム・エコノミー 大変革の時代に生きる経済、死ぬ経済』より)

バンダアチェに昔からあるパサールアチェ市場は、買い物客がおおぜい訪れる魅力的な場所だ。果物売り場には、果皮がヘビのうろこのようなスネークフルーツ、赤いランブータン、ラグビーボールに似たかたちのドリアン(果物の王様と呼ばれる。独特の強烈な臭いを放つため、屋内へのもち込みを禁止する地元ホテルも多い)など、アチェ人の大好物が並んでいる。

断食月の迫った、1年でいちばんの結婚シーズンでもあるこの時期、雑貨屋はドレス用の生地や新居にかけるカーテンの布を探す女性たちでにぎわっている。細い路地には仕立て屋が軒を連ね、何台ものミシンがカタカタと音を立てている。ある店主の話では、花嫁衣装にも流は行やり廃すたりがあって、いまはふんだんなレースづかいが人気だそうだ。

カーテン生地は昔からあまり変わらず、アチェの旗の色に似た深紅が好まれている。アチェの経済にとって、パサールアチェ市場の中心地は重要な場所だ──そこには宝石と金ゴールドを売り買いする店が並んでいる。

地元のゴールド取引業者協会の会長ハルン・ケゥチ・レウミセは、市場にある彼の店の事務室にいた。部屋は涼しく静かで、かすかに香辛料の匂いが漂う。隅の流し台には赤と青のヘアクリームの容器が重ねられ、上の棚にはさまざまな形状のオーデコロンの瓶が並んでいる。

70代のハルンは、品のよいコロンの香りに、キュロットのように裾の広がった黒いシルクのズボン、黒いヘビ革の靴、真っ赤なモチーフの半袖のバティックシャツというしゃれた装いをしている。右手の薬指にはアチェの男性によく見られる大きな青い宝石が、左手の薬指にはこのあたりではあまり見かけない大きなダイヤモンドが輝く。

事務室の壁には、ゴールド専門家の認定証やジャーナリスト時代の表彰状が飾られていた。手首につけたソリッドゴールドのロレックスを動かしながら、ハルンはこの地域の家庭がこれほどまでに早く悲劇から立ち直れたのは、何世紀も受け継がれてきた伝統があったからだと言った。「何の目的で市場に来たにせよ、ここで客が真っ先にすることといえば、ゴールドの相場をチェックすることだ」。アチェでは、ゴールドこそが王だ。

アチェ人には「ゴールドの地金」を表す独自の用語があり、重さや評価基準の体系も独自のものをもっている(基本単位「マヤム」は、1マヤム=約3.3グラムに相当)。アチェ人が宝石店でゴールドの市場価格を調べるのは、欧米人が銀行口座の残高をチェックするのに似ている。アチェでは銀行はあまり利用されず、「信用の基盤はゴールドだ」とハルンは力説する。彼らの“貯金”は地金か嵩かさのある宝石で、市場価格を見て自身の“貯金”残高を、きょうは節約すべきか散財できるかを確認するのだ。

ゴールドには非公式の保険の役割もあると語るのは、市場でいちばん繁盛しているこの宝石店の跡継ぎ、36歳のソフィだ。婚礼を控えたアチェの男性は、地元で「結婚料」と呼ばれるゴールドを買い増す必要があるという。この「結婚料」は花嫁の父ではなく花嫁に渡され、花嫁自身が身に着けることから、いわゆる結納金とは異なる。バンダアチェでの結婚料の相場は20マヤム(約2800ドル、4000万ルピアに相当)。

ソフィとハルンの店のショーケースで輝くソリッドゴールドの腕バングル輪1個を買うのにだいたい足りる。農業や漁業を中心とした経済では、その年々で儲けに浮き沈みがあり、アチェの人たちは豊作・豊漁の年にはゴールドを買い増し、不作・不漁の年にはそれを売って、生活費の足しにするのだ。こうした文化では、女性のゴールドは自身の装身具という役割と家計の緩衝器という役割を併せもつ。

アチェの労働者の年間賃金は、平均3000万ルピアほどなので、ゴールドの腕輪は、1年間無収入でも生活していけるだけの現金を手首につけているのと同じなのだ。

ゴールドを基本にした貯金と保険のシステムは、明文化されていない非公式なものだが、その歴史は長い。2004年の災害のあとも、このシステムは迅速かつ効率的に力を発揮した。パサールアチェ市場で最も早くビジネスを再開したのはゴールド取引業者の店だった。

ハルンとソフィも災害直後の3ヵ月間、駆けずりまわった。ゴールドを売るためではなく、住民が生活を立て直す資金を得られるよう地金と宝石を買ってまわったのだ。災害でゴールドを流された者もいたが、身に着けていた宝石を売ることのできた多くの住民に私は会った。

しかも、売買は公正な価格でおこなわれた。ふつうなら、ある地域で何かを売る人の数が増えればその品の値は下がるが、ゴールドには世界共通の商品相場がある。ハルンとソフィは、ジャカルタなど他の地域の取引先には国際相場価格で売れることがわかっていたので、住民のゴールドを公正な価格で買うことができた。この伝統的な金融システムがアチェを護り、起業を考える住民がすばやく現金を手にすることができたのだ。

私が訪れた極限経済の地で、最初に取りあげるテーマがこの伝統的な金融システム、すなわち「商取引」「価値の交換」「通貨」さえも包含した非公式システムの重要性だ。公式経済がたちゆかなくなったときに、商取引や価値の交換、保険の意味合いも含めた、伝統的だが非公式なシステムが真っ先に機能し、レジリエンスの原動力となることは往々にしてある。

重要な教訓としてまず掲げたいのは、そうした非公式経済の価値をより深く知るべきだということだ。アチェ人の金融システムはすばらしい一例だ。欧米の経済専門家からすれば、アチェの経済の仕組みは、時代遅れで効率が悪いと映るかもしれないが、実際には時宜を逃さず、効率よく作用する力をもっている。銀行自身が金を借りてレバレッジすることが、混乱を収めるどころかかえって増幅しがちな欧米の金融システムと比べても、そのちがいは際立っている。

エクストリーム・エコノミー 大変革の時代に生きる経済、死ぬ経済
リチャード・デイヴィス(Richard Davies)
ロンドンを拠点に活動する経済学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのフェロー。英国財務省経済諮問委員会の顧問、イングランド銀行のエコノミスト兼スピーチライター、エコノミスト誌の編集者を歴任。ガーディアン紙、タイムズ紙への寄稿をはじめ、数々の研究論文の著者であり、世界中の大学の経済学の教師や学生にオープンアクセスのリソースを提供する慈善団体CORE の創設にも携わる。本書はフィナンシャル・タイムズ(FT)紙とマッキンゼーが選ぶ2019 年度のベスト・ビジネス書にノミネートされた。

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