平成の芸能史・音楽史に燦然と輝く「沖縄アクターズスクール」の名前。安室奈美恵、SPEED、MAX、DA PUMP……ヒットチャート首位を独占し、90年代のエンタメ界で圧倒的な存在感をもったこの養成スクールを生み出したのは、マキノ正幸という男だった。
いまも沖縄に住むマキノが語る、アクターズスクール誕生、そして安室奈美恵という才能──。巨弾連載『二人のヒットメーカー』は佳境へと突入する。(文中敬称略)
華麗なる「映画一族」の血筋
マキノ正幸は一九四一年二月に京都で生まれた。マキノの著書、『沖縄と歌姫』では自らの華麗な血筋についてこう書いている。
〈父・マキノ雅弘は映画監督、母親・轟夕起子は映画女優。今の若い人はピンとこないかもしれないが、マキノ雅弘はあの高倉健を有名俳優へと育て上げた映画監督だ。そしてその妻・轟夕起子は宝塚歌劇団の前身となった宝塚少女歌劇団の女優で、マキノ映画の看板女優となった。のちの「世界のクロサワ」、黒澤明の監督デビュー作『姿三四郎』のヒロイン・小夜を演じて人気を博した。ちなみに、このとき黒澤明を評価し、監督にするよう推薦したのは父だったという。
さらには、祖父のマキノ省三は、“日本映画の祖” ともいわれ、まだ舞台が中心だった興業の世界に、映画(当時は活動写真と呼ばれていた)製作のシステムを確立した人物だった。
雅弘のすぐ上の姉・恵美子はマキノ智子の名で知られる女優で、歌舞伎役者でのちに映画スターとなった四代目澤村國太郎と結婚。その間に生まれたのが、俳優の長門裕之と津川雅彦の兄弟だ。私にとっては、長門と津川は年の近い従兄にあたる〉
ある時期まで彼は、この「血」の重さにさいなまれることになった。
戦後、父親の雅弘は過密な撮影スケジュールをこなすために、当時は合法だった「ヒロポン」に手を出していた。そして精神的にささくれ立った雅弘は「顔が気に入らない」という理由でマキノを殴りつけることもしばしばだった。
雅弘が可愛がっていたのは、早くから子役としての才能を見せていた長門と津川、特に見栄えの良かった津川である。マキノも父親の職場である撮影所にしばしば顔を出していたが、雅弘からは「正幸には映画は無理だよ」と言われたという。俳優はもちろん、演出にも向いていないと言われたのだ。