妹から見た姉の実像
米原万里さん(1950~2006年)は、ロシア語会議通訳、翻訳、エッセイ、小説などで大きな業績を残した異能の人だった。
『姉・米原万里』は、万里さんの3つ年下の妹・井上ユリ氏(作家の故・井上ひさし氏の夫人)による愛情に溢れた姉についての回想録だ。
外交官時代から筆者は米原さんと親しくしていた。2002年、鈴木宗男疑惑の嵐が吹き荒れたときも、米原さんは公然と筆者を擁護してくれた。また、東京拘置所から保釈された筆者に、米原さんは、職業作家に転身することを強く勧めてくださった。米原さんがいなければ、筆者が作家として第二の人生を歩むことはなかった。
米原さんは、見事なロシア語を話したが、ソ連に留学したことはない。日本共産党の幹部だった米原さんのお父さん(米原昶氏、1909~1982年)が、チェコスロバキアの首都プラハに置かれていた国際共産主義運動の理論誌「平和と社会主義の諸問題」編集局に、日本代表として勤務していたときに2人の娘は在プラハ・ソビエト学校に通い、そこでロシア語を身につけた。
1959年に米原さん一家がプラハに移住したときは、日本共産党とソ連共産党の関係は良好だった。その後、中ソ対立が勃発し、日本共産党は中国共産党を支持した。そのため、ソ連から米原さん一家は露骨な嫌がらせを受けた。
〈この年(一九六四年)の十一月、わたしたちは五年ぶりに帰国した。中国政府の招待があり、北京、広東を経由して帰ることになった。
当時中国に入るには、モスクワからではなく、イルクーツクで中国機に乗り換えなければならなかった。プラハからモスクワに行き、一泊してからイルクーツクに向かった。
ソ連に招待されていたころ、モスクワに着くと、わたしたちは丁重な出迎えを受け、クレムリン近くの、隠れ家のような、おそらく帝政時代の貴族のお屋敷を改装した共産党の招待所に案内され、そのスイートルームに泊まった。でも、このときは、出迎えは来たもののあきらかに下っ端役人だ。
つっけんどんに案内されたホテルの部屋は、廊下の端の、形のいびつな小さなダブルルームで、エキストラベッドが一つ入っていた。姉と二人で寝るには小さすぎるので、ベッドをもう一台頼んだら、もう部屋には足の踏み場もなかった。
あまりにわかりやすい手の平返しでおかしかった。
このホテルのレストランのメニューに、わたしたちの大好物のペリメニ(シベリア風水餃子)があり、注文した。ところが、プラハで食べてきた牛肉や豚肉を使ったものと違ってこの店の具には、ただしくシベリア風に羊肉が入っていた。当時、羊肉の苦手だった万里は、かわいそうにあまり食べられなかった〉
シベリアのペリメニはモンゴルの影響を受けているので、羊肉を使うのだと思う。これにスメタナ(サワークリーム)をかけて食べると抜群においしい。