外国人の私がリクルート時代に学んだ日本人の「相手を受け入れる」美徳
だから世界から尊敬される他人の弱い部分を認める日本人
リクルートに在籍しているときに、印象的だったことがあります。
日本人どうしのかかわり方を観察していて、日本人は、そのとき、その場の行動が、決して本人の本質的な全体評価にはならないことに気がついたのです。
リクルート時代は飲み会がたくさんありました。
お酒の席で、部下に対して大声を上げて真剣に怒る上司もいました。「お酒が入っていなければ、おそらくそこまで言わないのだろうな」と思うようなことまで言うので、人間関係が壊れるのではないかと心配になったほどです。
しかし興味深かったのは、翌日の、その場にいた社員たちの反応でした。大声を出していた上司の悪口を、決して言わないのです。
逆に、「部長にも、いろいろストレスがたまっているのかも」などと、気遣うような発言しかしないのです。
人間には、普段の「自分」と、ときどき現れる「別の自分」の、2人の自分が共存しています。
アメリカ人も、スーパースターやアーティストの二面性は普通に受け入れます(有名歌手のビヨンセも、普段の自分とステージ上の自分があまりにも異なるため、ステージ上の自分に別名の「Sasha Fierce(サーシャ・フィアース)」とつけているそうです)。
ところが、アメリカ人は、仕事の同僚と飲みにいって、いままでとまったく違う人柄が出てくるのを見ると、「へえ、いままでずっと隠してきたのだな」と、いくらか否定的な反応をするのです。
けれど日本人は、決してそんな反応は見せません。
それはアメリカ人に比べると、とても不思議な姿勢です。
おそらく日本は、普段から「個」よりも「みんな」と調和をとり、社会に適応している人がたくさんいるからでしょう。