新幹線殺傷事件から考える「誰でもよかった」供述がもたらす「安心」

この供述は意外な役割を持っている

なぜ「同じ言葉」が使われるのか

走行する新幹線の車内で男女が殺傷された事件での、最初の犯人の供述は「誰でもよかった、むしゃくしゃしてやった」というものだった。

この犯人の“コメント”は、事件当日の夜、かなり早い時間に出されている。各マスコミが一斉にそう伝えていた。警察による発表であろう。

「誰でもよかった。むしゃくしゃした」

たびたび耳にする言葉である。

同じコメントを耳にするたびに、私はいつも、犯人はそんな言葉を口にしてないんじゃないか、と想像してしまう。犯罪者が、感情的な犯行直後に(犯行から数時間以内に)自分の犯行動機を語れるものだろうか、というのが根本的な疑問である。

ときどき聞く「覚えていない」というのが正直な気持ちのようにおもえる。もちろん、それぞれの場合によって違うのだろうが。

しかし、今回は「誰でもよかった、むしゃくしゃしたからやった」とすぐに発表された。

 

警察に準備されたフレーズ

想像するに、取り調べする人が犯人に向かって「むしゃくしゃしたからやったのか」と聞いて、犯人がうなずく、ないしは強く否定しなかったら、そのコメントとして発表する。そういうようなことではないだろうか。

いや、私は警察関係の取り調べの細かいことは知らない。だから具体的なシーンはまったくの想像でしかない。

ただ手続きはどういう形であったとしても、「誰でもよかった、むしゃくしゃしたからやった」というコメントは犯人の口から出たものではなく、事前に当局が用意した言葉なのだろうと想像しているのだ。おそらく、それはそんなに大きくはずれていないだろう。

そうでないと、いくつもの事件で、まったく同じ「言葉」が使われている理由がわからない。それぞれの犯罪者が、以前の犯罪者と同じ言葉を発し続けるとは考えにくい。警察の仕事のひとつに、ある犯罪の特異性を際立たせない、ということがあるのだろう。それはたしかに社会の安寧に役立っているとおもう。

「誰でもよかった、むしゃくしゃしたからやった」という定型のコメントは、おそらく必要があって、用意され、同意させられ、発表されているのだろう。

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