2024.05.02
# エッセイ

宮田愛萌さんが実践! 休むことをうしろめたく思わなくてよくなる「秘策」とは――?

「休日、何もしていないのに気づけば夕方になっている」「全然休めた気がしないまま、月曜の朝を迎えてしまう」そんなワークライフ“アン”バランスなあなたに贈る、「休み方」の処方箋的エッセイ・アンソロジー『休むヒント。』が好評発売中! その中から、宮田愛萌さんの一篇を特別に大公開! 休むことに罪悪感を覚えていた宮田さんが気付いた、うしろめたさをなくすための「秘策」とは――?
『休むヒント。』(群像編集部・編)

勤勉なふりをした休日

二十五年の長いとも短いとも言えない人生のうち、少なくとも十九年くらいは怠惰な人間として生きてきた。

喉元過ぎれば熱さを忘れるという言葉の通り、当時したはずの苦労も美しい思い出に変わっているだけなら良いのだが、受験生と呼ばれる立場であった小学六年生の頃も、高校三年生の頃も、でてくる思い出はベッドの上で『ハリー・ポッター』や『マリア様がみてる』を読んだ記憶ばかりである。『ハリー・ポッター』シリーズはまだ単行本で十一冊だから良いが、『マリア様がみてる』シリーズは全三十七巻である。受験生が戯れに読むには少し長い。

高校時代、どうしても行きたくない授業は、出席日数を数えてギリギリセーフくらいになるように休んでいた記憶もある。ちなみに行きたくなくなったきっかけは、隣の席の友人が教科書を忘れたので机を付けている時に、頰杖をついて窓の外を眺めていたら「やる気ないなら帰っていいよ」と先生にめちゃめちゃ怒られたことである。友人の手前「教科書忘れたのは私じゃない」とも言えず、友人はずっと申し訳なさそうな顔をしていた。その日から私はその授業だけ三週連続欠席し、友人はそれから一度も教科書を忘れなかった。

唯一と言って良いほど頑張った記憶があるのは国語科から出る夏課題の作文くらいだろうか。国語以外は九月が来てからが本番であり、提出日のその授業が始まる号令までに終わらせればそれは期日を守ったことになる。と言って休み明けのテストが終わった後に必死になってノートを埋めていた。

これは学生たちへのアドバイスだが、終わらなかった場合は潔く「まだ終わっていませんすみません」と謝った方が良い。下手に「やったんですけど持ってくるのを忘れました」と言うと「明日職員室に持ってきて」と言われることがある。正直に言って謝ると「じゃあいつなら出せるの?」と、一週間程度締め切りを延ばしてもらえる可能性が高まるのだ。ちなみに私はやったのに持ってくるのを忘れた場合でもやっていないふりをしていた。次の日も忘れたら絶対もっと怒られるので、締め切りを次週にしておいて持ってきた時に出す作戦である。良い作戦だったと思うが、真似することは推奨しない。

要領は悪くない方であり、楽観的で、運が良い。この三つの性質の美しいコンビネーションにより、私の怠惰な生活は形作られていた。そんな私がセルフケアについて語るなんて、十八の私が聞いたら呆れるに違いない。「あなた、怠惰じゃない」と。

しかし、大学に入ると私の生活は一変した。

最初の半期はアルバイトが楽しくて三つ掛け持ちし、かつ大学の広報課の学生団体に入っていた。二ヵ月くらいサークルに顔を出していたこともある。夏以降はアルバイトではなく、きちんとお仕事をしていた。授業は取れるだけ取り、二年生からは司書資格取得のための授業も取っていたため、まあまあ忙しい生活をしていたのではないだろうか。怠惰にしていなくてもかなりぎりぎりだったため、気がつけば自分が怠惰な人生を送っていたことを忘れてしまった。

私の中に、勉強や仕事とは辛いものだという勝手な先入観がある。「社畜」という言葉や、一日最低十二時間は勉強するべきだという受験生生活の印象がそうさせているのだろう。だからだろうか。私は今も昔もあまり勉強や仕事をしているという感覚がない。

大学では大好きな日本文学を学び、仕事も楽しいと感じることの方が多かった。繰り返していたのは「大学での勉強は趣味みたいなものですから、辛いよりも楽しいが勝ちます」という言葉だ。そして今は、ずっと大好きだった言葉で表現する仕事をメインにさせていただいている。

自分が楽しくて、やりたくてやっていることなのに、休みを取りたいと思うことに対して罪悪感を抱くようになった。前職が、私生活が充実している様子を見せるのはあまり望ましくないとされる職業だったこともあるかもしれない。好きなことで辛いと言ってはいけないような気すらしてくる。

現在、私はある程度自分の裁量で休みを調整できる。だからこそ、休みを取っていいのだろうか、と不安になってしまうのだ。頭では、好きなことだろうと休んでよいし、休息が必要なことは理解しているが、この時間でなにか別の仕事や勉強ができるのではないかと思うと休むことを躊躇う。怠惰な人生を十九年送っていたのに、休みを躊躇うようになるなんて、と感動を覚えるほどに。

あの頃のように「まだ終わっていませんすみません」と言って締め切りを一週間延ばしてもらうわけにはいかない。ちょっと怒られたからと言って出社拒否できるわけもない。もう大人になったのだから。自分の行動ひとつひとつが、「他人から見た私」を形作っている。それはすごく怖くもあり、楽しくもあり、時折わああと叫びたくなる心地になるのだった。

私はそんな時、ひとりで観劇に行く。

観劇は私の趣味のひとつだ。だからはじめは観劇も娯楽であるという罪悪感もあったが、物語や人物をどのように解釈しているかを知るための勉強だと自分を納得させることで、他の休息よりもずっと気軽に楽しめるようになった。

私はよく観劇を「する」のではなく「行く」と言う。そしてその場にいる「観客」としての役を全うするのだと思いこむことによって、気軽に楽しめることに気がついてからは、出来るだけ色々なことを罪悪感の少ない言葉で言い換えるようになった。言葉によってこんなにも感覚が変わるのだと思うと、嬉しい。少しずつ罪悪感を言葉で薄めて、休むということに感覚をなじませているのだろう。そうしたらいつか「この日は予定があるので別日でお願いします」「体調が悪いので休みにします」と自然に言えるようになるのだろうか、と考えたところで急に自信を無くしたように私は思った。

宮田愛萌(みやた・まなも)
1998年東京都生まれ。2023年アイドルグループ卒業時に『きらきらし』で小説デビュー。エッセイの執筆をはじめ、帯文の寄稿や作家との対談、短歌研究員として短歌を詠むなど活躍の幅を広げている。最新作は『あやふやで、不確かな』
『休むヒント。』(群像編集部・編)
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