2024.04.26
# 昭和史 # 日本軍兵士 # 戦争

「戦死せんと、村の者に顔向けならん」…「地獄のビルマ」を生き抜いた日本軍兵士は、なぜ家族からも疎まれて居場所を失ったのか

「戦友会」と聞いてピンとくる人は、どれだけいるだろう? 慰霊や親睦のために作られた元将兵の集まりだが、その「お世話係」として参加し、戦場体験の聞きとりをつづけてきたビルマ戦研究者がいる。それが遠藤美幸さんだ。

家族でないから話せること、普段は見せない元兵士たちの顔がそこにある。『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)から、その一端をご紹介したい。世界中がキナ臭い今、戦争に翻弄された彼らの体験は何を教えてくれるのか。

『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』

本記事は、『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)を抜粋・再編集したものです。

 

いつまでも下っ端

ビルマ戦線には日本各地から兵士が集められ、10師団以上が従軍した。なかでも雲南戦場の主力は、九州久留米の龍兵団(*1)。筑豊炭田の炭鉱夫も多く、「タコツボ(1人用の小さな散兵壕)」掘りもお手のもの。日本陸軍の屈指の「強兵」と謳われた。拉孟守備隊はその先鋭部隊。雲南戦場には龍兵団以外に、勇兵団、安兵団、祭兵団、狼兵団も馳せ参じた。平田二等兵は安兵団119連隊(野中大隊)の機関銃中隊。歩兵の「花形」だ。

元兵士たちが集う戦友会では仲間内にしかわからない隠語が飛びかう。女子高生の「JK言葉」ではないが、戦友会ビギナーには隠語は意味不明。私も最初はほとんどおじいさんたちの話についていけなかった。「安はやすやす祭り上げ、龍と勇がしのぎを削る」。これはビルマ戦線の元兵士、なかでも龍や勇の元兵士がよく口にするフレーズ。彼らは、「ビルマ戦線に祭と安がノコノコやって来たから負けたんだ」と事あるごとに話のネタにした。東北の勇兵団は東北人らしく寡黙で忍耐強く戦争がうまい。よって、龍と勇が雲南戦場で激しく競い合いながら戦果を挙げている最中に、祭と安が足を引っ張ったとでも言いたいのか……。当時、関西地区の安と祭は「弱兵」の代名詞。京都弁や大阪弁を軟弱だという者もいた。大阪人は金儲けの話しかしないと嫌悪する者もいた。大阪連隊の歩兵第8連隊にいたっては、「またも負けたか8連隊」と「弱兵」のレッテルを貼られて揶揄された。このような「隠語フレーズ」とともに兵士の間でまことしやかに囁かれた。戦時中だけでなく戦後も戦友会や慰霊祭で酒が入るとつい口に出た。

雲南戦場でのこうした安兵団の扱いに、平田さんの憤怒は積もった。戦後、平田さんは梱包関係の会社を立ち上げ経済的に成功した。おそらくかつての上官より豊かな老後を送っていたであろう。白髪頭の老人となった元兵士たちはそれぞれの人生を歩んで来たのだが、戦友会や慰霊祭では不思議なもので、軍隊時代の階級がそのままモノを言う。平田さんはいつまでもいちばん下っ端の初年兵。ビルマ戦線の戦友会では「おー、安の初年兵か」といわれて「値踏み」されてしまうのだ。

それだけではない。戦後、平田さんはある戦友会の訪中旅行で雲南戦場を訪れた時、龍と兄弟師団の菊の元大尉に、安の野中大隊500名が、拉孟守備隊の救援のために龍部隊の「おとり」となって、滇緬公路の峠分哨(滇緬公路上の要所で、その先に龍陵、拉孟、平戛という日本軍の拠点に至る)の先の三叉路まで進軍したことを話すと、菊の元大尉は「龍が突破できなかった峠分哨の先の三叉路に安が進軍できるわけがない」と一蹴した。安の野中大隊が峠分哨まで達したことは同行者の誰ひとり信じてくれなかった。平田さんは、このときの口惜しさは生涯忘れられないと語った。野中大隊の「峠分哨の戦い」は生還した将兵の間でも黙殺され、防衛庁(当時)で編纂した公刊戦史の『戦史叢書』は言うまでもなく、第53師団(安)の部隊史にもその記録が残されていない。

平田さんは、自分が初年兵でなかったら、安兵団でなかったら、皆が信じてくれたのに違いないと顔を歪めた。峠分哨付近の「突撃山」と名づけた禿山で、数多の安の兵隊の命が散った。その後の龍陵の戦いで野中大隊はほぼ全滅したのである。平田さんは戦闘で負傷し野戦病院に送られて命を繋いだ。「安はやすやす祭り上げ、龍と勇がしのぎを削る」。これは雲南戦場を生き延びた平田二等兵には決して受け入れられないフレーズ。安だって祭だって、命を賭して戦った。平田さんは会社を次世代に譲ってからは、安の野中大隊の戦場の記録を後世に残すことに執念を燃やした。死んだ戦友のことを唯一生き残った自分が書き残さなくて誰がやると、意気込んでいた。

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