2024.04.26

同じ日本人でも「庶民」と「エリート」で使う言葉が違っていた…知られざる「知的格差」の歴史を読み解く

日本という国は知的水準によって分断されているが、それはけっして「自己責任」の問題ではない。さまざまな調査が示しているように、「生まれ」「経済状態」は知的能力と密接に関係している。「塾に通う時間が長い」「家にある本が多い」といった事情だけでなく、日常会話においても「格差」があるのだ。

子供の「知的能力」は親との「日常会話」で決まる…⁉「生まれ」と「知性」の残酷すぎる関係』より続く…

知的な振る舞いの社会格差

いずれにせよ、明治時代の農村から現代の子どもに至るまで、知的な能力や振る舞いには社会的な格差があり、今もある可能性が高い。それは「日本社会は文化的・知的に平等である」という思いこみを捨てれば、無数の例を見出すことができる。

早くも明治時代初頭の1878年には、東京から北海道まで旅をした英国人女性イザベラ・バードが見聞録に大衆と士族層の印象の差を記している(※5)。彼女の目から見た普通の日本人は、(僻地に入る前の)東京近郊でさえ「醜く、汚らしく貧しい姿」だったが、たまに出会う士族は違ったらしい。たとえば士族階層に属するある宿屋の主人は「下層階級の人たちとくらべて、彼の顔は面長で、唇は薄く、鼻はまっすぐ通り、高く出ている。その態度振舞いには明らかな相違がある」。彼女の感想を言葉通りに受け取るかどうかはともかく、その年に遠い国からやってきたばかりの異邦人にも強い印象を残すほど、振る舞いや容姿の階層差があったことが示唆される。

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そればかりではない。バードはこの人物と「多くの興味ある会話を交わした」。もちろん通訳である伊藤を介してだろうが、19世紀の英国で教育を受けた女性と江戸時代の武士社会で育った男性とが知的に呼応したことは、知的な階層差の、一種のヒューマン・ユニバーサルをさえ暗示していないか。

ちなみに、バードがノミと覗きに悩まされながら旅をしていた年の東京帝国大学在学者の約74%は士族階層出身だった(※6)。近代日本の学歴には、それまでの身分制度を引き継いでいる面がある。もし学歴が身分でないのならば、だが。

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