2019.11.17

「煩悩って何ですか?」田原総一朗が玄侑宗久さんに聞いてみた

宗教者との対話②玄侑宗久

前回私が対談を行った南直哉氏は、非常にラジカルな仏教僧であった。けれど、話は大変おもしろく、どんどん引き込まれた。

今回は玄侑宗久氏に対談のお相手をお願いした。玄侑氏は、仏教僧であり、芥川賞を受賞した作家でもある。釈迦は、「出家するには仕事に就くな」と言っているが、そうなると玄侑氏が小説を書くのは、「邪道」ということにならないのか。そして、煩悩とは何か。聞きたいことがたくさんあった。

仏門に入った理由

田原:玄侑さんは、慶應大学のご出身でしたね。

玄侑:はい。

田原:慶應をお受けになった頃は、どんなふうに生きようとされていたんですか。もちろん、生家がお寺という事情はあったのでしょうが。

玄侑:暗中模索でした。第二外国語もフランス語を選んだのですが、他に中国語とアラビア語も学んで、結局中国文学科に進みました。

田原:玄侑さんは慶應を卒業されて、すぐに仏門に入るのではなく、いろいろな職業にお就きになりますね。なぜですか?

玄侑:やはり、物を書きたかったというのがありまして。

田原:大学のときから作家になろうと思ったんですね。

玄侑:そうですね。ただ、書き出してみると、どうしても、テーマが宗教的なことになる。大学のときも、坐禅会に通ったりしていたので、物を書くか、坊さんになるか。二者択一で考えていたのです。ある先生に相談しましたところ「そんなに悩むなら両方やればいいんじゃないか。問題は順番だけでしょう」ということを言われまして、はっと気が付きました。とにかく仏門に入って、あとのことはそのあとで考えよう、と。

田原:それで、天龍寺の専門道場にお入りになりましたね。それはなぜですか。

玄侑:あちこち、どういう老師がいるのかというのを調べたのですが、最後に気になったのが、妙心寺と天龍寺だったのです。両方訪ねてみようと思って、訪ねたときの印象で決めました。

田原:なぜ天龍寺をお選びになったのですか。

玄侑:ちょうどドイツ人のお客様を案内されていた平田老師という方と、庭でばったりお会いしたんです。「入門志願者なんですけれども」と話しかけたら、応じてくださいました。「詳しいことは道場で聞きなさい」と言って、そこまで連れて行ってくださったんですよ。老師は、今の私と同じくらいの歳だったのですが、「この老師についていこう」と思いました。

田原:その後、道場で、どんなことを学びましたか。

玄侑:それを一言で言うのは、かなり大変なのですが。要は、外からの情報が遮断されて、内からの情報と向き合う日々だったのだと思います。

田原:内からの情報とは何ですか。

玄侑:無意識で片付けてしまっているところに何があるのか。何時間も坐禅をしていますと、そういうものと対面しますよね。

 

田原:なるほど。やはり講師のような、教える方もいるんですか。

玄侑:いわゆる、講義という形ではありません。月の中の決まった日に、老師が話されるということはありますけれども。それは、たいがい漢籍のお話なので、折り入って説明するという感じではないですね。

田原:僕は、仏教に興味があって、けっこうたくさん仏教に関する本を読んでいるんですが、そもそも、なぜいま宗教を取材したいと思ったかをお話させてください。

今、「人生100歳時代」と言われますね。実は、僕は、ノーベル賞を獲った京大の山中先生と親交があるんです。

山中先生から「これから10年くらいで、あらゆる病気が治る。人間は死ねなくなり、平均寿命が120歳になる可能性がある。今まで医学というのは、寿命を延ばすためにやってきた。ところが、寿命が延びることが、良いことか、悪いことか、大問題になっている」という話を聞きました。

今までの日本人の人生設計は、だいたい20年までのところ、40年働いて、あと15年は年金で気楽に好きなことをやって終わる。75から80歳で人生が終わります。

しかし寿命が120歳になったら、定年後に60年間もある。100歳だとしても、40年間ある。こうなると、改めて「生きるとは何か」ということを嫌でも考えざるを得ない。そこで、生きるとは何かを考える時に、どうしても、宗教が必要になるのではないかと。

ところが今回の参議院選挙では、公明党は100万票以上票を減らしました。創価学会の得票数が、幾分減ったということは、会員数が減ったということでしょう。これは、創価学会だけではないんですよね。いろいろな宗教の会員数が減っている。宗教は必要とされているのか、それとも縮小していくのか。そこが知りたいんです。

玄侑:アメリカではそれが問題になっていますよね。「Googleは神にとって代わるのか」という問いがあります。いまの若い人たちは、知らないことはGoogleで検索をしますから、答えを出るのを待って祈っている必要がないわけです。

要するに、祈るということが無意味になりつつあるくらい、ITが進んできているということです。検索した結果が本当の答えかどうかはともかく、とりあえず納得させるような答えを与えてしまいます。今「明日、天気になあれ」と、てるてる坊主を作る人もいないでしょう?

田原:たしかにそうですね。

玄侑:「明日」と検索したら「午前中は晴れで…」と出るわけですから。アメリカでも、カトリックの教会の日曜学校に集まる人は高齢者だけなのです。皆が集まることで心震える体験をしたということが、もう求められていないわけですよね。そういう直接のコミュニケーションによってお互いを高め合うということが、皆、個別化してしまって。スマホのせいというのは、非常に大きいと思います。

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